セントラルエンジニアリング株式会社

HISTORY 沿革

約60年間にわたり築いてきた、お客様との信頼。それに支えられて今日のわたしたちがあります。

1960年
  • セントラルエンジニアリングの前身「セントラル商工」設立。
    最初の仕事は鉱山機械の設計支援をすることでした。
1962年
  • セントラルエンジニアリング創業。
    社員4人、下駄屋の2階に本社を構えるという船出でした。
1964年
  • 機械事業部・通信機事業部の2部門に分離。
  • 石油化学プラントの設計請負開始。
1966年
  • ダムのテレメータ、遠方監視制御装置の開発、無線機器の電源部開発に従事。
    (はじめての納入先は和歌山の二川ダム。)
1967年
  • 受託開発開始。製品の設計・開発・製造を行う。
  • 製造部門を立ち上げ、自社開発第一号「ステップオシレーター」が完成。ダム用テレメータに搭載された。
1973年
  • 本社を千代田区丸の内に移転。
1978年
  • 原子力発電所に開発支援を開始。
1980年
  • ラリー競技において正確な距離やタイムを計算する自社製品、ラリープランナー「RP-80A」を発売。
  • 建築・建築設備の設計請負の受注が増加。
1981年
  • バーレーン王国にて、自動車電話システムの信号機変換に携わる。
1982年
  • アラブ首長国連邦向けオートモーティブテレフォンシステムを設計・開発。OEM提供する。
  • ラリープランナー「RP-90S」を発売。
  • 横浜に工場を開設。
1983年
  • ラリープランナー「RP-900」を発売。
1985年
  • 商用車やバスを製造する自動車メーカーと取引開始。設計請負・開発支援を行う。
1986年
  • 業務の多様化により、機械事業部をエンジニアリング事業部に改称。
  • 新横浜エンジニアリングセンターを開設。
  • ビデオコンバーターPVC88(NEC PC-8801用)発売。
  • ソフトウェア開発事業部発足。
1987年
  • タクシー配車システムの開発に携わる。
  • ビデオコンバーターを発売。
    PVC400(NEC PC-8801用)、PVC16(富士通 FM-16β用)、8チャンネルオートミキサーの受託設計・製造開始。
1989年
  • 高崎エンジニアリングセンターを開設。
  • 乗用車メーカーとの取引開始。
  • 総合重工メーカーとともに航空宇宙産業へ参画。
1990年
  • 1.5GHz帯アナログMCA無線機用延長制御装置開発。
1992年
  • 道路標識や企業・行政に特化した情報などを可視化することができる、地図情報システムの先駆けとなった地図情報管理システム「Visual MAP」発売。
  • パソコンの時計をGPS校正するGPSシンクロタイマーを開発・発売。
1993年
  • 横浜に新工場落成。
1994年
  • 視線誘導装置無線システムを開発、設計・製造。
1995年
  • 半導体業界への開発支援開始。
1996年
  • コピー機メーカーへの開発支援開始。
1997年
  • 列車の接近を保線作業員に知らせる「TC型無線列車接近警報装置」を開発。
1998年
  • 燃料電池・製造の開発支援を開始。
1999年
  • LRT(路面電車)の運行管理システムを開発。
2003年
  • 環境マネジメントシステム〔ISO14001(2004年版)〕 認証取得〔横浜工場〕。
  • 大手通信会社とともに介護通信システムを開発。
2004年
  • 豊田オフィスを開設。
  • 防災無線用デジタルアンプを開発・製造。
2005年
  • ダム水位流量無線監視システムを開発。
2006年
2008年
2009年
  • ポータブルカーナビゲーション用のVisual MAPを開発。
  • 鉄道の遠隔監視システムを開発。
2011年
  • 航空機分野への開発支援を開始。
2012年
  • 名古屋オフィスを開設。
2016年
  • 社員の技術スキルアップのために、研修専門施設「A-LABO」を秋葉原に開設。
  • 防災行政無線に搭載されている防災無線用デジタルアンプ出荷台数32,000台。
2017年
2018年
2019年
  • 秋葉原にある研修施設A-LABOを「あしたのじぶんけんきゅうじょ A-LABO」としてフルリニューアル。
2020年
  • 4月 豊田エンジニアリングセンターを開設。
  • 防災行政無線に搭載されている防災無線用デジタルアンプ出荷台数40,000台。
2021年
2022年
2023年
2024年

創業者について

ゲタ屋2階、社員4名から歴史ははじまった。

創業者
渡辺 早苗

渡辺 早苗

1935年千葉県夷隅郡大原町生まれ。
1953年高校卒業後上京、旧石川島重工業(現IHI)のエンジニアリングに特化した子会社に入社。その時に配属された職場での業務は、鉱山やトンネル工事掘削に使用する削岩機を扱い、海外からの図面を翻訳やメートル法に修正するというものであった。

こうした中、旧石川島重工業の技術部長を当時務めていた機械技術の第一人者である「小栗富士雄氏」の下で働くことになった。小栗氏は今日でも機械技術者のバイブルとなっている技術書の執筆者である。そのような一流の技術者に師事することで、技術力がみるみる向上。持ち前の明るさと粘り強さもあり、すぐに責任ある仕事に携わることになった。

しかし、広い視野で将来を考えたときに「このまま、案穏とはしていられない」という思いが芽生え、20歳のとき泰斗工業に転職。日立製作所亀有工場に出向し、重機などの建設機械の設計・開発に携わった。このころから独立に向け事業を興す野心に燃えていた。

25歳(1960年)11月に資金も事務所もなく、一人で「セントラル商工」を立ち上げた。
社名の「セントラル」には、「日本の中心である東京で興した会社」という意味を込めた。今までに得た技術や経験を生かし設計請負を生業とした。当時は、まだ法人登記もしていない個人事業であったが、半年後には業務実態と合わせるために、社名を「エンジニアリングの中心でありたい」という想いを込め、「セントラルエンジニアリング」に改称。27歳(1962年)12月には法人化を果たし、株式会社として大田区のゲタ屋2階を借り、社員4名で新たな歴史を刻むことになったのである。

設立当初は、近代化によるインフラ整備が急ピッチで進められ、急速な経済成長期にあった。時代の波に乗るべく、ひたすら仕事を求め営業するために数駅前で電車を降りては、あと一社、あと一社と諦めることなく、絶対に新規のお客様を開拓するという一心で、飛び込み訪問を昼夜問わず続けていた。

ちょうどその頃横浜市に竣工したばかりの松下通信工業に、もう後には引けない気持ちを抱き、資材部や購買部に飛び込んだ。しかし、小さな会社に仕事を出すわけもなく断られ続けた。それでも何度も何度も足を運び、何度も何度も頭を下げ「技術の方に合わせて欲しい」と懇願し続けた。その思いに根負けしたのかわからないが、ようやく面会することができ、「人が必要な仕事がある」との言葉を聞けた。ようやく突破口が開けたのである。

このチャンスを逃さず、すぐに優秀なエンジニアを出向させると、結果と信頼を得ることができた。以降は多くの仕事を請け負うことになる。請負った仕事は「ダム監視制御装置やテレメータ装置」であり、当社が専属で携わったこともあり、売上に大きく貢献した。この松下通信工業との取引が転機となったのである。

世の中には素晴らしい会社があるが、
会社が素晴らしいのではなく、そこに居る人達が素晴らしい

渡辺 早苗

業容拡大が著しい松下通信工業は、事業部制を採用しており、売上がある程度の規模になると事業部に昇格させていた。日頃より「いい会社のまねをするべき」との信念があり、自社も事業部制を採用して、可能な限り経営を細分化することを決め、1964年9月に「機械事業部」と「通信機事業部」の事業部制を敷くことなった。
「世の中には素晴らしい会社があるが、会社が素晴らしいのではなく、そこに居る人達が素晴らしい」、常々「いい会社のまねをするべき」ということを事あるごとに部下に伝えていた。ホールディングス体制になり、現在は事業部が統合されたが、旧エンジニアリング事業部(機械事業部)と旧通信機事業部の誕生である。

昭和30年後半より、エネルギー市場が急速に拡大し石油が主体となる中で、プラント配管設計に携わる人材が不足していることに着目し、プラント業界にエンジニアの出向を始めた。その機械事業部(旧エンジニアリング事業部)の設計請負が増加し、月商800万円(今の価値で8,000万円)従業員も80名規模となった。1965年8月に本社が手狭になり、港区の三田東急アパートに本社を移転した。

順調に業容が拡大する一方で、エンジニアを集めるのには苦労した。しかしまたもや持ち前の先見性で目を付けたのが、当時の大手メーカーはほとんどが採用していなかった日本工学院専門学校であった。同校を何度も訪ね当社の魅力を熱く語り、多くの優秀な人材を得ることができたのである。
また優れた人材を集めやすくするため、中小企業では当時珍しかった週休2日制をいち早く採用するなど、大手企業にも引けを取らない様々なアイデアを実行した。

優れた人材を採用するためには、
会社のネームバリューを向上させることが必要

そのころには多くの技術者を抱えるようにはなったが、一人前に育ったエンジニアが転職するようになっていた。優秀なエンジニアの流出を防ぐため、長く働ける環境を整えるため、1967年10月に松下通信工業近くの農家の駐車場を借り、自社工場として生産を始めた。
一方で、自社製品開発にも着手した。そこには、「優れた人材を採用するためには、会社のネームバリューを向上させることが必要」と考えたからである。

会社規模が小さい中、リスクを避けるため、競合他社がいない製品開発に取組み、一定の間隔で低周波を発振する周波数シンセサイザーを自社製品第1号として「ステップオシレーター」を開発し、松下通信工業や日本無線などに採用され「ダム監視制御装置」には欠かせない製品となったのである。

1966年以降、採用窓口を増やし多くの人材を集めることや、顧客対応のスピード化を図るため、多くの関連会社を設立した。
1974年2月に日創グループを形成し、各社が健全な会社として発展していけるようにした。
「家族に報いることができる働き方をしなさい」という言葉を常々発していた。現在の企業理念である「家族に誇れる会社であれ」に繋がる言葉である。

1977年10月には、弟である渡辺伸を2代目社長に託し、自身は会長として新社長をサポートすることとなる。2011年11月には創業当時の仲間や社員を集め「創立50周年創業者を囲む会」を開催した。
以後、相談役として、当社の更なる発展を後進にゆだねたが、2019年(平成31年)3月12日に永眠した。享年84歳であった。今では考えられないが、とても豪快な相談役であった。

最後に、文中で紹介できなかった創業者が残した言葉をいくつか紹介します。

  • 「会社の売上は、お客様のからのお役立ち料と思いなさい、売上が少ないとは、それだけお役立ちが少ないということ。」
  • 「利益は、信頼料だと思いなさい、利益が出ない商売は、お客様から信頼されていない証だと思いなさい。」
  • 「会社の発展なしに社員の幸せはない。」
  • 「どんなに頭が優れた人でも、行動する人には勝てない。」